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レーテの河

 

 水面に身を横たえるような感覚に意識を呼び戻される。 ゆっくりと瞼を持ち上げると、穏やかな色をした空が視界を覆い尽くした。
(ここは・・・?)
 瞬間、頭に浮かんだのはそんな疑問。自分が見ていた空はこんな色ではなかったという記憶が意識の片隅で瞬く。
 自分が見ていた空は、もっとくすんだ色をしていた。
 視界を閉ざそうとする重い瞼と戦いながら、必死に自分の記憶をかき集める。
「・・・柊生、元帥・・・、定、光寺、中将・・・」
 呟いた声はひどく掠れていて、自分の耳にさえひどく頼りなく聞こえた。
 半ば閉ざされた視界を黒い影が遮る。細かい造作はわからないものの、見慣れた相手であることだけが、かすかに伝わる。
「貴方の居るべき場所はここではないはずですよ」
 相手を確かめようと、かすんだ意識を視界へと傾ける。しかし、視界は相手の手のひらによって再び遮られた。
「何故こんな場所にいるんです、春木大佐」
 視界を塞いだまま、耳慣れた声が問い掛ける。
「藤原少佐・・・」
「覚えていただけていたのですね」
「・・・私は黄泉へ来たのか・・・」
「黄泉など存在しませんよ」
 静かに切り捨てる言葉。
「では、私は何処へ来たと言うのだ」
「わかりません。ただ、あらゆる世界からはみ出した空間であることは確かなようです」
「はみ出した空間・・・?」
「そして、ここにはなにもない。あるのはただ"忘却"という河だけです」
「忘却・・・」
「そう。越えることによってすべてを忘れるレーテの河ですよ」
 するりと空いた手の指先が絡まる。
「河を越えることによって世界から忘れられるのか、あるいは、世界を忘れるのか・・・それは定かではありませんが、この河を越えたとき、人は完全に消えるのです。魂の死ではなく、記憶の死によって」
 独白めいた呟き。
「幸いにも、と言うべきか、私はまだ河を越えられずにこんなところにいるわけですが」
「・・・私が、覚えている」
 ふと口をついて出た言葉に、相手が口許を歪めた気配が伝わる。
「無理です」
「藤原」
「いずれ貴方も忘れます。人の記憶ほど不確かなものはありませんから。ましてや、歴史すら確実ではないあの世界では」
 反駁しようとした唇に、ほんのわずかな、触れるだけの接吻けが与えられる。
「さようなら、春木大佐」
 その言葉に問い返す暇もなく、思わぬ力で水中へと押しこまれる。
 揺らめく水面が遠ざかる。
 苦しい呼吸に、思わず開いた口から水が体内へと滑り込む。
 そしてそのまま、意識が遠くなった。

「春木大佐!」
 不意に呼ばれた名前に意識を引き戻される。
 視界を覆い尽くすのは止む気配のない吹雪の白。風の音に混じる、複数の声。
「どうなさったんですか」
「いや、なんでもない」
「このままでは二重遭難の危険が増すばかりですね」
「そうだな。危険性は十分にある。だが今は柊生元帥と定光寺中将を・・・」
「ええ」
 容赦なく降り続く雪片が、あらゆるものを飲みこんでいく。
「柊生元帥! 定光寺中将!」
 一切を忘却の彼方へと押しやる、レーテの河の如く。

 

「vol.15」の話。[2001/03/16]