>保管庫

虚実

 

 薄墨を溶かしたような暗闇。いつも目にする演台すらそこに溶けこんでしまって見えない。
「・・・誰もいないのか?」
 問いかける声すら呑み込まれていく。
 手袋の白。
 軍服の黒。
 自分の姿ははっきりと見えるのに、それ以外のものは何も目に映らない。
「こちらにいらっしゃったのですか、柊生元帥」
 そんな言葉にふり返るが、やはりそこに人の姿を見ることは出来ない。
 ただ、傍らを通りすぎていく人の気配だけが伝わる。
「例の件に関する報告書です。お目通しを」
 自分から遠く離れた空間で、何事もないかのように紡がれる言葉。
 あたかも、そこに自分がいるかのように。
 そうして、再び自分の傍らをすり抜けて去っていく人の気配。
 彼に自分は見えていない。
 自分には彼が見えない。
 しかし、彼の目には『楠本柊生』の姿が、そしてすべてが見えている。いつもと変わりなく。
 そこに『楠本柊生』がいる。
 『自分』ではない『楠本柊生』が、そこにいる。
 ならば、ここにいる自分は誰だというのだろう。
 聴覚に触れる靴音。
 三度、傍らを通りすぎていく人の気配。

 そうして、ただ、『彼』は一人取り残される。

 

[2000/09/18]