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藤浪

 

「こちらにいらっしゃいましたか」
 二十日月の闇の中、仄かに浮かぶ花灯り。
 満開の時期をそろそろ過ぎようかという藤の花の下。
 春木の声に定光寺はゆっくりと面を上げた。
 手を伸ばせば届く位置にまで歩み寄った相手に一通り視線を向け、足元へと落とす。
「・・・煙草の匂いがするな」
「煙草・・・ですか」
 低い呟きに春木が聞き返す。
「・・・小官も吸いますから、それは仕方のないことだと思いますが・・・」
「何時煙草を変えた」
 春木の言葉を遮り、定光寺が問い返す。
「・・・変えておりませんが」
「・・・では、貴官以外の煙草の匂いがするということか」
 そう口にして、定光寺は手に持ったままだった自分の煙草に火をつける。
「・・・・・・・・・・・・」
 困惑にも似た表情で、春木はただその仕草を眺める。
 はらはらと零れ落ちていく藤の花。
「・・・冷えて参りましたね」
 先に沈黙に耐えられなくなるのは、春木。
「盛春といえど夜は流石にな。ましてや今日のように風の強い日なら尚更だろう」
 そう応えて、定光寺はようやく春木の顔を仰ぎ見る。
「それは言い訳のつもりか?」
「・・・そのようなつもりは」
 反駁しかけた春木の言葉を、ひらりと宙を払った手が遮る。
 言葉に詰まった春木を一瞥し、定光寺は再び視線を足元へと移す。
 無数に散らばった薄蒼い藤の花。
 そうして、密かに射し込む月明かり。
「・・・貴官、いつまで其処にいるつもりだ」
「下がれと仰られるのならば下がりますが」
「なら、下がれ。・・・今は貴官の顔を見たくない」
「・・・わかりました。・・・失礼致します」
 顔を上げることなく告げられた言葉に、春木は逆らうことなく敬礼を返す。
 夜風に散り続ける藤の花。
 花房が擦れ合う音だけが聞こえる。

 

キリ番記念品。[2000/03/22]