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「ね?」
 平然と問い返された言葉に思わず色を失う。
 相手の微笑が、ひどく凶悪なもののように見えた。

     ・ ・ ・ ・ ・

 始まりは誰かが持ち込んだパズルのはずだった。

冬の雪山で四人の登山者が山小屋に吹雪で閉じ込められた。
生憎、火種も燃料もなく、真っ暗な山小屋の中は寒くて仕方がない。
そこで、彼らは自らが動いて暖を取ることにした。

さほど大きくはない山小屋の中、四隅に一人づつ、壁を背と右手にして立ち、
まず一人が、右手で壁を伝って歩き、左手で次の角にいる相手の肩を叩く。

叩いた者はその場にやはり壁を背と右手にしてとどまり、
叩かれた者は同じく壁伝いに歩いて次の角に居る者の肩を叩く。

一人が歩く距離は山小屋の壁一辺分であり、決してそれ以上でもそれ以下でもあってはならない。

そうしたルールの下、リレーの要領でぐるぐると小屋の中を一晩中回りつづけ、
幸いにも凍死を免れた彼らは翌朝、無事に四人で下山した。
ところが、その後、彼らからその話を聞いた知人は「そんなことはありえない」と叫んだ。
いったい彼らの話の何処がおかしいというのだろうか。

「何処がおかしいんですか?」
「それを考えてるんだろう、今」
 きょとんと首を傾げた秋山少佐に加納中佐が溜息混じりに呟く。
 元帥府の片隅にある休憩室。
 傍らには同じように首を傾げ、問題を眺める長沢大尉の姿があった。
「実際にやってみたらわかるんじゃないですか?」
 長沢大尉の手元を覗きこみ、武藤中尉が提案する。
 全員が納得しかけたその言葉に苦言を呈したのは、窓際でぼんやりと珈琲をすすっていた星野中佐だった。
「無理だと思うよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって言われてもねぇ・・・」
 困ったなぁと言いたげな表情で、ちらりと秋山少佐を見やる。
「それこそやってみればわかるんだけど」
「じゃあ、この問題は何処がおかしいんですか?」
「それを言ってしまったらおもしろくないんじゃないかい?」
 問い掛ける長沢大尉に肩を竦めて見せ、星野中佐は空になったカップを『使用済』と書かれた籠の中に納める。
「・・・やってみる?実際に」
 それはいささか矛盾を感じさせるような発言ではあったが、そこにいた誰一人として反論を唱えなかったのも事実であった。

     ・ ・ ・ ・ ・

 出来るだけ正方形に近い部屋、という星野中佐の言葉に、彼らは小会議室へとその身を移す。
「じゃあ、加納中佐はドアを背にしてそちらの角。武藤中尉は窓側を向いて次の角。長沢大尉はドアを右手にして向こうの角」
 四隅のうち三つまでの配置を終え、残ったのは一つ。
「小官はそこですか?」
「いや、秋山少佐はそこ」
 先手を打ってきた秋山少佐に首を振り、星野中佐は部屋の真中を指し示す。そして自分が残る角へと移動した。
 これで、部屋の四隅に、扉を基準にして加納中佐、武藤中尉、星野中佐、長沢大尉がそれぞれ位置することになる。
「壁は右手と背中側。加納中佐は明かりを消したら右手の壁沿いにまっすぐに歩いていく。出来るだけ静かに。歩いて、武藤中尉にぶつかったら、今度は武藤中尉が歩き出す。加納中佐は、今の武藤中尉と同じように、壁を右手と背中にしてそこで待機。あとは同じ。準備は良い?」
「はい」
 星野中佐の問いかけに肯定の言葉が返る。
「じゃあ、加納中佐、明かりを消してくれないか」
 そして会議室は闇に包まれた。

     ・ ・ ・ ・ ・

 明かりの消えた会議室の中に、絨緞に消され損ねた軍靴の音だけが響く。
 あまりにも静かな空気に少々息苦しさを感じていた加納中佐は右手のひらに触れた室内灯の電源の感触に、思わず安堵した。
 どうやらようやく部屋を一周したらしい。伸ばしていた左手から武藤中尉が歩き出す気配が伝わる。
 それからどのくらい経っただろう。不意にどん、と壁を叩く鈍く大きな音が響いた。
「!!」
 思わずびくりと身を竦める。するとすぐさま、星野中佐の声が聞こえた。
「明かりを点けて」
 言われるままに加納中佐は電源に指を伸ばす。
 二、三度、白色の光が瞬き、室内に明かりがともされた。
 そこでようやく室内をぐるりと見渡す。けれど、そこには明かりを消す前と同じ状況があるだけだった。
 唯一、秋山少佐の顔が色を失っているのは、先ほどの音の所為だろう。
「何だったんです、さっきの音は」
「ああ、あれは気にしなくていいから。こうやって合図の代わりに叩いただけだから」
 長沢大尉の問い掛けに、たいしたことではない、という風に星野中佐が壁を叩く。
「それより、問題は解けた?」
「え、あ、いいえ」
「だから、実際にやっても無理だと思うよって言っただろ?」
「じゃあ、あの問題が間違ってるんですか」
「間違ってはないと思うよ。でも、此処で証明は出来ないんだ」
 謎掛けのような言葉。
「まあ、もう一度ゆっくりと考えてみたらいいんじゃないかな? 実際にやるよりはわかりやすいと思うよ」
 小さく肩を竦めるようにして星野中佐が微笑を浮かべた。

     ・ ・ ・ ・ ・

 執務室に戻る星野中佐と別れ、再び休憩室に場所を移す。
「結局、何処がおかしいんですか?」
「だからそれを考えるんだろう、これから」
「この文章は、間違いなくおかしいんですよね?」
「星野中佐の言い分だとね」
「でも実際にやってみたら出来たんですよね?」
「ああ」
 納得いかない、と顔に大書きして四人が四人、そのまま黙り込む。
 沈黙を破ったのは、通りがかった倉橋中尉だった。
「・・・何をしてるんです?」
「倉橋中尉」
「ああ、なんだ。この問題ですか」
「知ってるんですか?」
「ええ。簡単ですよ」
 ひょい、とテーブルの上から紙を拾い上げ、事もなげに肯いてみせる。
「この条件でリレーをしようと思ったら、一人足りないんですよ」
「足りない?」
「ええ、5人じゃないとこの条件でのリレーは不可能なんです」
「どういうこと?」
「この文章の通りに動いていくなら、4番目の人がこの条件下で最初の人の肩をたたくことはどう考えても無理なんですよ」
「え、でもさっき・・・」
「図で描いてみましょうか?」
 ひらりと紙が裏返される。
「この左上の角を出発地点とします。そうすると、1番目の人はこう壁を伝って、左下の角で2番目の人にぶつかりますよね。そうしたら、2番目の人は右下の角へ同じように移動して3番目の人にぶつかるでしょう?」
「・・・あ」
 気がついた問題の矛盾点に思わず背筋が凍る。
「で、3番目の人は右上の角へ移動して4番目の人にぶつかる。ここまでは上手く行くんですよ。問題はこの次で、4番目の人が左上の角に移動しても、この角には誰もいませんから、リレーはここで途切れるはずなんですよ。なのにこの問題は、一晩中リレーを続けたと書いてる。これが矛盾点です」
 ね、簡単でしょう?と倉橋中尉が微笑する。
 それが酷く恐ろしいもののように見えた。

     ・ ・ ・ ・ ・

「・・・加納中佐」
「言うな」
 表情を固まらせたまま、即座に拒絶する。
 自分の肩を叩いたのが誰だったのか、そんなこと、考えたくもなかった。

 

元ネタは多湖輝『頭の体操』。[2002/09/04]