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雨景

 

「貴官、この雨の中、出掛けるのか?」
 外套に身を包み、傘を手にした長沢大尉の姿を見止め、問いかける。
「あ、はい」
 あっさりと肯く相手に、思わず苦笑めいたため息が漏れる。
「こんな天気の中で出掛けようなんて、相当物好きだな」
「そうですか? でも、どうしても、今日中に行かなければならない場所がありますから」
 応えた長沢大尉の言葉に、ふと、意識が切り替わる。
「"どうしても"か」
「はい、出来れば」
「なら、少しそこで待っていろ。送っていってやる」
「え?」
「雨の中を出掛けさせて身体を壊されても困るからな」
「え、でも・・・っ」
「つべこべ言うな。人の好意は大人しく受け取って置け」
「あ、はい。申し訳ありません」
 少し強くなった語調に、思わず謝罪の言葉が長沢大尉の口をついて出る。
「申し訳ないと思うなら、待っていろ。すぐ戻る」
 重ねて言い置き、足早に去って行く相手の背中。
 今度は長沢大尉が苦笑まじりのため息をつく番だった。

「さて、何処へ行こうというんだ、貴官は」
「えっと、あの、二ヶ所あるんですが、よろしいですか」
「構わんさ。送ると言ったのは私のほうだしな」
 激しく窓を叩く雨滴。
 こんな中を歩けば、傘をさしていても濡れることは間違いない。
「で、何処へ行くんだ」
「あ、はい。あの、東の通りにある花屋なのですが・・・」
「花屋?」
「あ、はい・・・」
「貴官、この雨の中、更に花を抱えて出掛けるつもりだったのか?」
「はあ・・・そういうことになりますねぇ・・・」
「無茶だな、貴官は」
「無茶、ですか?」
「雨に打たれれば花も傷むだろうに」
「・・・そう言えば、そうですね」
 ぽんと手を打つ長沢大尉の、今気付いたといわんばかりの様子に、呆れかえることしか出来ない。
 思わず、しみじみと呟いてしまう。
「・・・暢気だな、貴官は」
 呟かれた側は「はあ・・・」と曖昧な言葉を返すしかない。
「・・・花は、やめたほうがいいんですか?」
「それは貴官が決めることだろう?」
「はあ、そうですね・・・」
 ひどく困ったような表情が長沢大尉の顔に浮かぶ。
「・・・誰かの祝いか?」
「いいえ」
「なら、見舞いか?」
「いいえ」
 問いかけた言葉の両方に、長沢大尉は首を振る。
「・・・小官は、見舞いにすら行けなかったのです」
 聞き逃しそうな呟き。それきり互いに口を閉ざす。
 雨音だけが止まずに溜まっていった。

「お待たせしました」
 3本目の煙草に火をつけたところで、そんな声が届く。
 声の主は、外套の端々を雨に濡らしながら戻ってきた長沢大尉。
「もういいのか」
「・・・はい」
 意外な早さに問いかければ、簡単に返事が返る。
「・・・ひとつ、訊いてもいいか。無論、答えたくなければそれでもいい」
「・・・何ですか?」
「そこに眠ってるのは、誰だ?」
「・・・士官学校時代の友人です」
「リッターだったのか?」
「・・・いいえ。任官前に、自ら除隊を申し出たそうです。病魔の巣食った自分の身体では何も耐えられることはないから、と」
 膝の上で握りこまれた指先。
「小官は、全部、あとから聞いたんです。彼が除隊を申し出たことも、在学中に既に病に侵されていたことも、何もかも」
「・・・悔しかっただろう?」
 ふと問われた言葉に、長沢大尉の肩がぴくりと揺れる。
「なぜ自分は何も知らなかったのか、なぜ何も言ってくれなかったのか、自分は何も出来なかった。そう思うと、悔しくて仕方なかっただろう?」
「・・・・・・・・・はい」
「だが、もし貴官が相手の立場だったらどうする? 心配をかけまいと、何も言わないのではないか?」
           
「貴官が何も知らなかったのは、貴官の咎ではない。それは貴官に心配をかけたくなかったとい相手の意志だ。・・・違うか?」
「でも・・・」
 反駁しかけた長沢大尉の頭を、ぽんぽんと手のひらが叩く。それだけで、彼は何も言えなくなる。
 そして、思いもよらなかった涙が、こぼれた。
「・・・っ」
 慌ててそれを手で拭う。
 ぽんぽんと、もう一度頭を叩かれた。
「泣けるのなら、今ここで泣いておけ。元帥府ではそんな暇もないだろうから」
「・・・・・・・・・・・・」
「私は、貴官が雨に濡れて帰ってきたとだけ、思っておくことにする」
「・・・・・・はい」
 かすれた声。

 雨はまだ、強く、降りつづけていた。

 

「悔恨」とは別の、でもつながっている話。[2000/10/05]