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幻覚の在立

 

 喉をすべる酒が、ひどく苦いものに思える。
「・・・手酌は退屈ではありませんか、定光寺中将」
 そんな言葉とともに、目の前に並べられる真新しいグラスと酒瓶。
「よろしければ、小官も御一緒させていただけませんか」
「・・・誰も小言を言わなくなったと思ったら今度は懐柔策か、星野中佐」
 テーブルへと戻したグラスの中で、からりと氷が音をたてる。
「そのようなつもりはありませんよ」
「口ではどうとでも言えるからな」
「小官を信じていただけないのですか?」
「・・・まあいい。確かに一人で呑むのも味気ないと思っていたところだ。貴官、付き合え」
「喜んで」

「貴官も、私が幻覚を見たと思っているのだろうな」
 二人で杯を重ね、いいかげん呂律もあやしくなりはじめた頃、ふと定光寺中将はそんな言葉を零す。
「例の雪山でのことですか?」
「私とて、あれは幻覚だったのだと考えなかったわけではない」
 肘をついた姿勢で掌に額を押し当て、定光寺中将は独白のように言葉を続ける。
 もう片方の手の中、色のついた液体を満たしたグラスの中で、再び氷がからりと鳴る。
「これだけ探して見つからぬのなら、あれは・・・あの男はきっと幻覚だったのだ。何度そう思ったかも・・・そう思おうとしたかもしれん」
「・・・定光寺中将」
「しかし、どうしてもそう思うことが出来なかった。・・・どうしても」
「ならば、それはその者が幻覚ではなかったということでしょう」
 静かにグラスをテーブルへと下ろし、星野中佐が口を開く。
「幻覚を実在していると思うことも、実在するものを幻覚だと思い込むことも、そう容易くはないでしょう。いくら幻覚だったと考えようとしても叶わないと仰られるのならば、その人物は、あの雪山に、間違いなく、存在していたのですよ」
「・・・そう・・・だろうか、本当に」
「何故探しても見つからないのかは小官にはわかりかねますが・・・きっと、そうでしょう」
 一息にグラスを空けた定光寺中将に新たなアルコールを注ぎながら、星野中佐は肯く。
「ですから。またいずれ、その人物と、出会うことが出来るやもしれませんよ。・・・そうではありませんか、定光寺中将?」
「ああ・・・そうだな」
 星野中佐の言葉に頷き、定光寺中将は再びグラスの酒を体内へと送りこむ。
 微かな甘味が喉を滑り落ちた。

「定光寺中将」
 テーブルに面を伏せるようにして寝息をたてはじめた定光寺中将に星野中佐が声をかける。
「お休みになられたのですか、定光寺中将?」
 定光寺中将からの返事はなく、星野中佐はテーブルの上を片付けにかかる。
 溶けかけた氷が、からからとグラスの中で泳ぐ。
 静かな空間に、その音はやけに大きく聞こえた。
「・・・これほどまでに心に留める相手がいるのなら、その者、仮に幻覚だったとしても、きっと本望にございましょう。定光寺中将」
 そうして、テーブルをあらかた片付けてしまった後、目を覚ます気配のない定光寺中将を視界に、星野中佐はそう言葉を紡ぐ。
 そして、静かな敬礼姿勢を最後に踵を返した。

 

キリ番記念品。「vol.16」の後の話。[2000/04/08]