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天上の調べ

 

 この世界はひとつのものから生まれたという考え方は、錬金術師にとって親しいものだ。
 同時に、この世界に存在するすべてのものが、そのひとつに連動、影響されるという考え方も、特殊なものではない。
 その考え方を「照応(コレスポンダンス)」という。
 錬金術師が記す錬金研究書も、この「照応」に則って書かれている。
 ただしその法則は、人それぞれの独自のものが多分に含まれているのだが。
 そして、かつてこの場所に住んでいた錬金術師は、どうやら世界に存在するすべての照応を解き明かそうとしていたようだった。

「・・・・錬金術師というよりは、修道士か求道者だな」
 ため息混じりの呟き。
 もう何年も前に亡くなった、その錬金術師が残した膨大な量の研究資料。それに片っ端から目を通して既に三日。
 いくら彼が人並みはずれた集中力を持っていても、流石にいい加減疲れてくる。
 ぼりぼりと頭を掻き、伸びをひとつ。
「賢者の石の手がかりもなさそうだしなぁ」
 だが、研究アプローチや解釈は、非常に面白く、論説もしっかりしている。
 研究テーマ自体もあまり見られないものであるし、町の図書館か軍に保管を依頼するほうがいいかもしれない。
 そんなことを思いながら首を廻らせ、同じように資料に目を通しているはずの弟を探す。
「アル?」
 しかし、その姿は室内のどこにも見当たらなかった。
「アールー?」
 いったいどこに行ったのかと、部屋を出て、けして広くはない建物の各所を見て回る。
 家の主が亡くなって以降、長い間放っておかれた廃屋は、時折、床がぎしぎしと音を立てた。
 窓から入る光は、時間が夕刻に近いことを告げている。
「・・・・アル?」
 一つ目の扉、二つ目の扉の向こうにも弟の姿は見当たらない。
「アル」
 三つ目の扉の向こうにようやく見つけた弟は、先刻までの自分と同じように山のような資料に埋もれていた。
 その正面には、短辺ですら1mを超えていそうな、一枚の絵。
「ねぇ、兄さん。この絵、すごいよ。見てると音が聞こえるんだ」
 呼びかけに振り向いた弟が、抑えきれないかのように紡ぐ言葉。
「音?」
 首を傾げながら、アルフォンスの隣で同じように絵に視線を注ぐ。
 しかしながら、適当に絵の具を塗りたくったようなその絵から、彼の言う、音を聞き取ることはできなかった。
「・・・・俺には聞こえない」
「そう?」
「どんなふうに聞こえるんだ」
「どんなふうって・・・・絵を見たら音が聞こえて、絵から目を離したり、絵を隠すと聞こえないんだ。それに、何回見ても同じ曲にはならない」
「ふうん・・・・」
 弟の説明を聞きながら、先ほどまで向き合っていた研究資料の中に音と色の照応についての記述があったことを思い出す。
 絵から音楽が聞こえるという弟は、彼が唱えたその照応を正しく、そして無意識のうちに理解しているということだろうか。
 その変換過程すら気付かぬほど自然に。
(そういや、見たものを音として感じる人間の例がどっかの本にあったな)
 中央の図書館で見つけた研究書だったか。
 それとも、母親を錬成しようとしたときに目を通した医学書だっただろうか。
(ああ、でもあれは・・・・)
 生まれつき、あるいは後天的な事故によって、感覚の混同が起きるというものだ。
 けれど、その視覚と聴覚の置換にも、照応理論が働いているならば。
 原因は判然としないが、後天的なケースは頭部の負傷から生じたものが多くを占めていた。
 そのことを考えると、人間の脳にも関係があるのだろうか。
 だとしたら。
(アルに、肉体がないからか・・・・?)
 そこまで行き当たって、ぶんぶんと頭を振った。そうすることで、今までの思考を振り払うように。
「ねぇ、兄さん。この絵も、ここにいた人、コーイェン・リーって言ったっけ、その人が描いたのかな」
「ああ、そうかもな」
 不規則な面と線を描く巨大な抽象画。
 出来損ないの合わせ絵(デカルコマニー)、あるいは絵の具流し(ドリッピング)のようにも見えるこの絵。
 ここに、かの錬金術師は何を記したのだろうか。
 彼にとっても、この絵は音楽だったのだろうか。
「・・・・なあ、アル」
「なに、兄さん」
「どんな音が聞こえる?」
「優しい音だよ。なんだか、懐かしい感じがする」
「そっか」
 弟の傍らに座りこんで、その手を握る。
「・・・・お前と同じ音が聞けないのは、惜しいな」
「歌ってあげようか?」
「そうだな」
 小さく微笑して肯いてみせる。

 そして、弟の声が紡ぐ旋律を聞きながら、弟と二人、ただ、絵を眺めていた。

 

菅浩江「永遠の森−博物館惑星」(早川書房)とのダブルパロ。[2004/05/25]