>保管庫

人魚の海

     海にゐるのは、
     あれは人魚ではないのです。
     海にゐるのは、
     あれは浪ばかり。

     曇った北海の空の下、
     浪はところどころ歯をむいて、
     空を呪っているのです。
     いつはてるとも知れない呪。                <中原中也/北の海>

 

「なんで夏祭りの夜にまで絵なんか描くのよ」
「もう少しで完成するんだ。・・・これは夜の海なんだから・・・。今描いてしまわないといやに落ち着かん」
 月の明るい夜だった。
 一人の痩せた中年の男が浜辺にイーゼルをどっかと立て掛けて、無心にカンヴァスを塗りたくっている。
「ったく。浴衣着てバックパックしょってる人なんて見たことない」
 側にいた少女がぼやきながら、山のふもとを見やる。
 祭りの灯がちらちらと、鬼火のように揺れていた。
 今年で13歳になる千春は、生まれて間もない頃から伯父である鏡一郎に育てられた。
「夜店ならもう行ったじゃないか」
「居たの1時間くらいじゃない、画材が重いからって」
「1時間で上等上等」
「鏡一郎伯父さんっ」
 千春が軽くにらみつけ、鏡一郎が笑った。
「こんなことなら洋服を着てくればよかったかな」
 濃紺の浴衣の袖を振りながら千春が言った。
 布地に水色のてっせんの花が咲いている。
「日本海の潮の色って・・・青くて凄く深いのね。浪だけが限りなくうねって・・・・・・みたい」
「え?」
 顔はカンヴァスに向けたまま、鏡一郎が聞き返す。
 波打ち際が白くなった。
「まるで・・・人魚みたい」
 彼の手が止まった。
 千春の眼は、沖の方へと注がれている。
「千春」
「何」
「あそこにも、祭りの輪から外れてしまった人がいるようだね」
 鏡一郎が指す向こうに、一人の少年が座っていた。
 じっと海を見ている。
「私たちが来た時にはいなかったわ」
「千春と同い年ぐらいかね・・・」
 呑気に鏡一郎が呟く。
「伯父さん、私、ちょっと行ってくる」
 言い終わらないうちに千春は少年のほうへと駆け出していた。

「今晩は」
 少年の瞳が、ゆっくりと千春に移った。
 整った顔立ちで、からだつきも華奢だ。
 月明かりの下で、彼の白いシャツがくっきりと目立った。
 千春の浴衣姿を見て、
「・・・君も祭りを抜けてきたの」
 少年の言葉には、少しだけ透明な響きがあった。
「私はもう少し居たかったんだけどね・・・。伯父が絵を描くからって」
「伯父?」
「うん。・・・あ、両親いないのよ。2歳の時に、事故で」
 少しあせる千春。
 少年は、やがてぽつりと言った。
「・・・僕と似てるね」
「・・・でも私は、あまりにも小さいときだったから・・・、物心ついてからなら別かもしれないけど・・・。それに鏡一郎伯父さんもいるしね」
「・・・あの向こうの、イーゼルの側の男の人のことだね」
「伯父さん、日曜画家なんだ。結構いい線いってるのよ。最近は依頼も増えてるし。専ら風景画ね。今は海の絵を描いてる」
「伯父さんはかわいがってくれるかい」
「勿論。ただ、あんまり絵に熱中しすぎちゃうのが玉に傷だけど」
 少年も笑った。
 その年齢にそぐわない、穏やかな笑みだった。
「僕はずっと一人だったよ。・・・でももう違う。母さんが迎えに来るんだ。今までは中々逢えなかったけれど」
 少年の瞳が細まる。
「そう言えば、名前聞いてなかったね。何て言うの?」
「・・・玲」
「れい?女の子みたいだけど・・・綺麗な名前ね。私は千春。漢数字の千に季節の春ね」
「千春か、」
 玲が反芻する。
「ちはるーっ」
 鏡一郎の叫ぶ声が聞こえた。
「絵ができたぞーっ」
「い・ま・い・くーっ」
 そう声を返すと、千春は玲の服を引っ張った。
「おいでよ。絵、見せてあげる」

 オイルや雑巾、絵筆などをバックパックにしまいながら鏡一郎が言った。
「中々の力作だろう」
 こどもたちはカンヴァスを覗き込んだ。
 一面の青緑色と、ところどころに浮き立つ白い泡。
 灰にぱらりと桜色を混ぜたような空の色。
「・・・そっくりだなあ」
「玲?」
「『赤い蝋燭と人魚』の話を知っているかい」
「小川未明の書いた童話だろう」
 鏡一郎が口をはさむ。
「よく御存じですね」
「『赤い蝋燭と人魚』。何なのそれ」
「千春は知らなかったけ」
「うん。名前くらいならわかるけど」
「題の通り、真っ赤な蝋燭が出てくるんだよ」
 玲は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「それは人魚の娘が、人間(ひと)への恨みを込めてつくったものなんだ。北の海に面した小さな町にあるお宮があったんだけれど、その蝋燭がお宮に点った晩は、必ず大嵐が襲ってきて幾つ舟を沈めるんだ」
「蝋燭をお宮にあげなければいいのに」
「何処からともなくやってきて、たびたびあげていくものがいるんだ」
「・・・その人魚の仕業かしら」
「さあね・・・。読んだのは挿絵の全くついてない奴だったけれど、僕が頭の中で浮かべた北の海の情景に、この絵は本当にぴったり合うんだ」
「ふふ」
 鏡一郎が笑う。
「これで、ここのふもとの辺に灯でもつければ完璧だね」
「あ、蝋燭の灯りならあそこに」
 千春が山のふもとを指さす。
 無数の祭りの灯がちらちらと揺れていた。
 それは、本当に人魚の点す赤い蝋燭の炎の様だった。
「不気味ね」
「華やかな祭りも、遠くから見れば、あんなに儚げにも見えるんだな」
 夏が終わろうとしていた。
「帰るとするか」
 鏡一郎はとっくに画材を全部片付けてしまっていた。
「・・・じゃ、もう行くね」
 少し名残惜しげに、千春は呟いた。
「・・・ああ」
「お母さんが迎えに来るのでしょう。・・・よかったね、もうひとりじゃないんだよ」
「有り難う。・・・千春」
「何?」
「・・・いや、元気で」
 千春は黙って頷いた。

 浜の上を歩きながら、鏡一郎が尋ねた。
「・・・気付いてたかい」
「玲のこと?」
「今日が、海に帰る日なのかね、彼は」
 千春は黙っていた。
「彼の少年にとって、あの祭りの灯は人間でいられた事の最後の証なのかもしれないな。あの人魚のつくった蝋燭のように」
「鏡一郎、おじさん・・・?」
 月明かりの照る静かな晩、潮が波打ち際にさらさらと音をたてて満ち引きしていた。

 とある小さな海辺の町で、一人の少年が行方不明になった。
 それを耳にした鏡一郎は、例の絵を部屋から取り出した。
 カンヴァスには、岬に赤い灯がひとつ、妖しげに揺らめいていた。